いのち

ごめんなさい

絵柄パクについての所見を課題で書いたらなんかこの文章訳分からんけど面白くね?になったので再掲

イラストレーター等の画業の人間や、インターネットにおいてイラストレーションに親しむ人間にとって、「絵柄パク」という単語は「オミクロン株」と同じくらい耳にする単語である。それくらい、「絵柄パク」という単語が絵に携わる人間に恐怖を与え、関心を寄せている事象を包括し得た言葉であるからだ。しかし、絵に関心がある人間というのは絵を描いている人間が思うよりもずっと少なく、まず「絵柄」とは何か、イラストレーションとは何かを読み手に説明する必要がある。〇〇さんは、非常に面倒なこのイラストに関する歴史や説明を完遂している。私にこの丁寧な過程をやれと言われたら絶対に出来ないと戦いてしまった。

 本業があり趣味で描いている人間にとっても、描くことを生業とし、インボイス制度に頭を擡げる人間にとっても、己が産み出した絵や漫画は自我の発露である。例え、描いた漫画や絵の内容が、読み手である一般大衆に関心を持たせるため恣意的に作られていたとしても、これは疑いようのない事実だ。輪郭を細くすれば読み手が忘れないだろう、この展開は王道で読み手に受けるだろうと考えること自体が、作者の自我を発露させている。作者は、作品に読み手がつくことによって、生活を安定させるのみならず、自我を受け取る人間がいることに安心する。絵柄は自我の発露の最たる形である。わざわざ人と違う作品に見せようと絵柄を作ることは、自我を作品に組み込もうと足掻くことそのものだ。

 絵柄パクがなぜここまで問題視されるのか。私は、自我の発露を受け入れられなかったことに、作者、つまりラレ元が困惑し不安を感じるからだと思っている。作者はパクリを行ったとされる者に二つの不安を覚える。

 一つは、自分自身の作品が、己の自我の発露が、パクリ元の人間の思想であると何も知らない受け手に伝わっていくことへの不安だ。

もう一つが、パクられたという怒りを持つ自分が、考え過ぎだと思われることへの不安である。己の美意識や自我、こだわりを他の人間の持つそれより大きいと伝えることになってしまう。自我が強いということを隠すために、絵や作品に残していたはずだった。しかし、自分の自我を「それを自我であると認識しない第三者」が、掬い取った。これを指摘して自我を取り戻したい。しかし、この自我を己のものだと相手や受け手に見せることが、自分のこだわりは他の人間とは全く違うものだと言っているようで苦しい。

ラレ元はこのような葛藤に追い込まれているのだと、私は勝手に同調し、絵柄パクに恐れ慄いている。発露しているとバレないように自我を発露することができるのが、イラストや漫画という土俵だった。協調性や自己中、承認欲求など、己を発露する人間をある種糾弾する言葉が飛び交うポイズンな世の中で、自我を発露できるのは絵の土俵しか無かった。そこで、運良くファンが付き、運良くお金を貰っていた。そこに侵略者が現れ、絵や作品以外のことに強制的に付き合わされることになった。社会のルールや法律を考え、この自我の侵略者を糾弾するにはいかにすべきか、考えねばならなくなった。これは非常にストレスだ。

絵描きというのは非常に繊細な人間が多い。絵描きの精細な精神を土足で踏み荒らすような事象が起きてしまうというのは憂慮すべき事態であると思う。自我を認められなかった人間は、寂しさから何もできなくなったり、狂って社会に憎悪を向けることが多いのだ。